『寒山落木』 常磐会寄宿舎

子規の年譜(講談社『子規全集』22巻)は520頁余に子規の行動が記録され、
35年間の短い生涯の密度の濃さに圧倒されます。明治の意気盛んな書生たちの
交流の記録には小説を読むような眩しさがあります。
ここでは『寒山落木』時代に限って主なる事項を記します。

明治20年9月     第一高等中学校本科一年に進学
明治21年8月1日頃 頼朝の墓から鎌倉宮へ雨の中を歩く途中に喀血
明治21年9月下旬 子規、常磐会寄宿舎に入る
明治22年5月9日  夜突然の喀血。翌10日肺病と診断される 夜再び喀血
              「時鳥」の題で四、五十句作句、「子規」と号す
明治22年5月     内藤鳴雪が常磐会寄宿舎監督となる
明治23年2月     常磐会寄宿舎で「紅葉会」を開催 「つづれの錦」第一集を共同で製作
              七集まで続く
同 7月         第一高等中学校卒業 9月文科大学哲学科に入学
明治24年2月     文科大学国文科へ転科
同、12月        本郷駒込に転居
同 冬          俳句分類丙号に着手する
明治25年2月     下谷区上根岸、陸羯南(くが かつなん)居西隣に転居
              「月の都」の批評を幸田露伴に求め、その結果小説家を断念する
明治26年       日本新聞社員として、母妹とともに上根岸で新年を迎える
明治27年2月     陸羯南居の東隣に転居
同 秋          自選句稿『寒山落木抄』成る
明治28年4月     近衛連隊付記者として日清戦争に従軍 
   5月17日     帰国する途上の船端で喀血    ~神戸須磨で療養松山へ 
   10月末      帰京の途中旅行を楽しみ奈良に寄る
明治29年        子規庵の新年句会に鷗外、漱石が参加
              この年 子規唱道の新俳句が文壇の新勢力となる


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

新海非風、五百木(いおき)瓢亭、竹村黄塔、勝田明庵、藤野古白たちに、詩文好きの
舎監内藤鳴雪も加わって常磐会寄宿舎の「紅葉会」が続きました。
旧派月並み俳句に入門をしていた子規が一番俳句に精通していましたし、
性格的にもリーダーシップを発揮できるのは子規、また論客として一目置かれて
いたのも子規でした。

  
「余はとかくはなしずきにて~~学問の話はしやべりて後に益あること度あり、
~~そのことを口に出して思ひし丈の理屈をならべてしまうと、その時に又
一歩進んで、先の道理を発明すること数々なり 或は時として名言を発する
こともあるものなり」
(『筆まかせ』「話しずき」明治22年)と書いていることでも想像できます。

ここに高濱虚子、河東碧梧桐も参加して来ました。

子規に誘われ感化された友人後輩たちは、旧派月並み俳句も知らず、何物にも拘束されない
斬新な詠み方で子規を刺激しました。子規はその影響を受けながら次第に月並み俳句から
脱して行きます。「俳句は座の文学」と納得する句会本来の姿がここに表出しました。
書生達の熱気あふれる句会は『寒山落木』の俳句数を増す原動力となりながら、
近代俳句発祥の地となりました。

明治24年から子規は古来の発句を蒐集分類する目的で「俳句分類」に携わります。
多種多様の俳句の可否を判別する仕事を進めて行った子規は、この「俳句分類」を
通して自らの審美眼を培ったと言われています。

『寒山落木』は26年に2998句の俳句が季語別に掲載され、
29年まで同様に季語別に編纂されて行きます。
『寒山落木』27年(1965句)、28年(2836句)、29年(2994句)、
それぞれ「子規未定稿」、「子規子稿」、「俳句稿」と書き添えていることから、
子規自身が「稿本」と意識していたことが伺えます。

子規は模倣を嫌いました。類句を見つけ、それが自分の句よりも先に詠まれた
とわかると、きちんと自分の句の上に記しています。例えば28年春の

  とりつきて浮木に上る蛙かな  の子規の句の上に
  とりつきて浮木争ふ蛙かな   鳴雪         とあるようにです。

子規は『寒山落木』の25年から29年までの自選句集『獺祭書屋俳句帖抄上巻』(俳書堂)を刊行します。
子規が亡くなった年、明治35年4月のことです。


参考図書  『子規全集』2巻 22巻年譜、 講談社
        『日本詩人全集2』解説  新潮社
        『新日本古典文学大系明治編27正岡子規集』 岩波書店
        『日本近代文学大辞典』 日本近代文学館
        『日本文学辞典』 新潮社                               
                                    (千惠子)
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# by hakusanfu-ro | 2012-11-06 10:13

『寒山落木』 子規の俳句入門

雪ふりや棟の白猫聲はかり 

これは明治18年1月8日竹村鍛宛の書簡に書かれている子規の句で、
現在のところ子規の初めての俳句と推定されるものです。
子規が明治17年頃には俳句に親しんでいたとされる所以です。

明治17、18年頃 神田猿楽町の下宿で、子規は貸本屋から発句に関する本を借りては読み、
友人と俳句を作っていたようです。自分が面白いと思えば人を巻き込む子規気質とでもいいま
しょうか、愉快な思い出も残されています。

「~略~ 同寓者にも頻りに作句をすゝめ自分らが遊びに行きても是非遣れ遣れと強ゆるので
みな弱つてゐた。僕には発句はできない何卒免しておくれなどと山内が泣きを入れて大笑ひに
なつたこともあつた。」(柳原極堂)


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


明治20年、正岡子規は郷土松山へ帰った折り、旧派宗匠大原其戎に師事しました。
月並み俳句を批判して俳句革新を唱えた正岡子規、
その俳句の出発点は旧派月並み俳句でした。

大原其戎の『真砂の志良邊』(明治13年1月刊)に子規は投句を始め、
其戎没後は其然について投句を続けました。
「丈鬼」は本名「常規」を音読みにした号です。

虫の音を踏わけ行や野の小道     松山 正岡(明治20年8月)
       虫の音をふみわけて行く小道哉 と添削     『寒山落木』抹消句
 
 
初汐やつなくところに迷ふ舟      在東京 丈鬼(20年9月)『寒山落木』収
 
 
枝村へまて甘ほしの續きけり      東京 丈鬼 (20年10月)
       甘干の枝村かけてつゝきけり と添削         『寒山落木』収
 
 
友は皆寄てなれしかはしら鮓      東京 丈鬼(21年5月) 
 
 
障子越し青みの移るはせを哉     東京 丈鬼(21年8月)
       青々と障子にうつるはせを哉  と添削       『寒山落木』収
放生會して心よくぬる夜かな       東京 丈鬼 (23年8月) 


『真砂の志良邊』誌上に掲載された子規の俳句は44句、
このうち19句が『寒山落木』に収められました。

大原基戎に師事したことで子規は俳句を作る筋道を学び、
この時期に短詩型に潜む広がりを感得したと言われています。


  参考図書 『子規全集』1巻、1巻参考資料 解題、22巻 講談社
         『日本詩人全集2』 新潮社                        
                                 (千惠子)
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# by hakusanfu-ro | 2012-11-05 08:49

『寒山落木』 子規と漢詩

『寒山落木』の書名について子規は明らかにしていません。

少年時代から漢詩句を書写しながらじっくり親しんで来た子規独自の着想で
子規の趣味の反映と考えられています。

『寒山落木』の22年の年次の上に題された「寒山枯木」の文字、
これが句稿の最初の名前だったと推定され、句稿を整理し直して
明治23年の夏か秋に『寒山落木』と改めたのではないか、と考えられています。
年譜・明治22,23年の項に
 「中國日本の漢詩人の作品を広く集めて書写、『随録詩集』を編む。」
とある、その時期です。

子規は、若い頃から一年中で秋が一番好きだった、と語っていたそうです。
清涼な気配が冴えましてゆく秋、晩秋となれば寂々とし、やがて葉を落とした山の木々が
その姿を明らかにします。「落木」の語を得た「寒山」が泰然として見えるようです。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


8,9歳のころから外祖父大原観山のもとに漢詩の素読に通っていた子規は
明治11年(12歳)土屋久明に師事して漢詩の作法を習い、

明治13年には吟友5人で金曜日の夜ごとに「同親会」を開いて
河東静渓(碧梧桐の父)の添削を受けながら回覧雑誌を作っていました。

子規が詩歌に心を向けたきっかけは漢詩でした。

加藤楸邨氏は

「後年の子規に見られる明快率直なその発想と、それにともなう歯切れのよい声調を培った
ものの一つに、この幼年期から青年期にかけての漢詩制作があずかって力あったもの
ということができよう。」と書き、

21年 青々と障子にうつるはせを哉
22年 白砂のきらきらとする熱さ哉
23年 菜の花やはつとあかるき町はつれ   
 
                (『寒山落木』収)
                    
を例に揚げています。

漢詩的発想と声調は、子規本来の、渋滞することが嫌いで明快な行き方を好む先天的な資質と、
時代の合理主義的な思考と相絡んで、後年の短詩文学の世界を形成していったようです。

子規自身が詠んだ「寒山」として

寒山拾得賛
箒木やありといはれて消えかかる (25年抹消句)


傚寒山體 
路到寒山盡 寒山古木多 風高斷雞唱 雲冷起樵歌
去來本無意 向上竟如何 又下寒山路 寒山古木多 (「漢詩稿」明治28年)

が確認されています。


参考図書 『子規全集』1巻 、22巻 講談社
         『日本詩人全集2』 新潮社
                            

                                    (千惠子)
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# by hakusanfu-ro | 2012-11-01 12:29

『寒山落木』 図書館の貴重本

正岡子規は生前に俳句稿本を7巻まとめ
明治18年から29年までの5巻を『寒山落木』と名付けました。
半紙を二つ折りにして片面に十行書いているそうです。

『日本詩人全集2』の『寒山落木』は明治20年から始まっていますが、
子規が俳句を詠み始めたのは明治17年頃とわかりましたので、
自転車で区の中央図書館へ行き、
アルスと講談社の『子規全集』のうち1,2,3巻を閲覧しました。

アルスの『子規全集』は貸出をしない図書館の貴重本でした。
特筆すべきは、その第二巻は子規によって浄書された『寒山落木』巻四を
そのままに写し出していて、子規の筆跡により子規の俳句を読み進めることが
できることです。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


図書館の貴重本となっているアルス『子規全集』一巻を渡される時はドキドキしました。

菊版よりも大きめでざっくりとした生地の表紙の見返しに
子規の描いた「青梅」の枝が伸び出します。明治三十五年六月廿七日雨と記されています。
薄紙の奥に「子規全集一巻」と表題紙

次の薄紙とその奥の頁に子規の俳句の直筆二句。 右から

  大佛をうつめて
  しろし花の雲         升

    俳句          子規筆

  あきかぜにさくら
  さくなり法華経寺       規

と書かれています。

この子規の二句の短冊が木版刷りで折り込まれ
また薄紙の奥に子規筆の「鶏頭の圖」
「俳句全集壱」と中扉
目次
「寒山落木」と直筆の木版印刷の扉

見ていくうちに「子規は大事にされていた」と明るい気持になりました。
子規を知るとみんな子規が好きになる、とどこかで読みましたが
少しずつ調べて子規を知って行きたいと思います。
頁を繰るにも紙の風合いが感じられて心地よい本です。


『寒山落木』明治18年には次の七句が収められていました。

梅の咲く門は茶屋なりよきやすみ
夕立やはちすを笠にかぶり行く
ねころんて書よむ人や春の草
小娘の團扇つかふや青すだれ
木をつみて夜の明やすき小窓かな
朝霧の中に九段のともし哉
初雪やかくれおほせぬ馬の糞

『日本詩人全集2』の解説では上記の二句が混同されて「ねころんで団扇つかうや青すだれ」
とされ、合計六句と誤記されていたことが閲覧をしてわかりました。
すぐに改訂されたかもしれません。それにしてもこの時代の子規を捉えて大変興味深く、
学ぶところの多い解説です。

第一巻にならう形で
第二巻には 子規筆の「春水の五句」と「自画像」
第三巻には 子規の絶筆三句(原寸大が大胆に折り込まれて)と「蛤の圖」が掲載されています。

「アルス」とはラテン語で芸術・美術の意味。「芸術書店阿蘭陀書房」を前身とする
東京市小石川区の出版社で、社主は北原鐵雄(白秋の弟)です。

アルス『子規全集』と講談社『子規全集』の『寒山落木』は、記載された俳句もその並びも同じでした。
講談社『子規全集』には子規が抹消した俳句の所在が通し番号で記され、巻末に抹消句が纏められて
います。『寒山落木』の俳句数は12836句、抹消句数は3287句です。

俳句へ傾倒して行く子規のエネルギー、そして後世に残すべく書籍を作り上げた人々の仕事を
目の当たりにして、予定していた買い物もせずに一路帰ってまいりました。


参考図書   『子規全集』(大正13年刊)1,2,3巻   アルス
          『子規全集』(昭和50年刊) 1、2,3巻  講談社
          『日本詩人全集2』(昭和44年刊) 新潮社
          『日本文学辞典』 新潮社
             
                                              (千惠子)
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# by hakusanfu-ro | 2012-10-30 21:26

『坂の上の雲』

正岡子規は俳句界のみならず、日本近代文学にとって特別に大きな存在です。
研究書の数は膨大にあり、今夏にはドナルド・キーン氏による『正岡子規』が刊行されました。
黒田杏子氏は「百十一年子規が待っていた人 鬼怒鳴門」と評されています(新潮社『波』9月号)。
その発行日の8月30日に、私は奇しくも新宿紀伊国屋書店でこの『正岡子規』を手にしました。
「このような研究書が出たのならば、もう些細なことなど書いたりする必要があるだろうか。」

読んでみると、綿密な研究の底に優しさが流れているように感じられました。
その優しさは、子規の死に際して書かれた友人や弟子たちのエッセイの紹介と考察にも及び、
子規の生涯と作品を理性的に穏やかに包み込んでいるように思われました。

書くことで 子規に関する書物を確かに読んで行きたいと思います。
本との出合い、情報との出合いをもとに、「子規あれこれ」を書いて
行きます。よろしくお願いします。  


~~~~~~~~~~~~

今年の2月、新百合倶楽部の掲示板に『坂の上の雲』(司馬遼太郎著)の書名が出た時
私も書き込みをしました。『坂の上の雲』が好きだったからです。

~~子規と真之、好古を核にする青年群像に明治の気骨と時代のエネルギーを感じ、
江戸時代の鎖国で培ちかわれた各藩の堅実な教育が、明治の新しい時代に
迸り出たと思いつつ読みました。

正岡子規は自分たちはすでに「遅れてやって来た」と言うのですが、それは新しい時代に、
価値ある人間として生きよう、という自負と心意気から発せられたものと思います。
「立身出世」に手垢のついていない時代だったのでしょう。

一方で、丹念に日常を積み重ねていく子規は、まめに友人たちとの句会の結果を記し、
友人の評を書いては壁に貼ったりしていました。楽しいですよね。子規がいなければ虚子はなく。
若き青年俳人たちが峰となり山脈となったことは、ほんとうに熱いことです。~~



掲示板には子規の俳句や『病牀六尺』の書名が書き込まれました。

私は書棚に眠っていた『日本詩人全集2 正岡子規・高濱虚子』(新潮社)を手に取りました。
シンプルな背表紙の小ぶりな古い本を、何だか懐かしい気持ちで開き、
子規の俳句を読み、年譜と解説を読みました。                
                                     (千惠子)         
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# by hakusanfu-ro | 2012-10-17 22:20


正岡子規に学ぶ


by hakusanfu-ro

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