子規と『當生書生氣質』

福沢諭吉は「学問のすすめ」(明治5~9年)で基本的人権の尊重の確立と実学の尊重を解き、立身出    世 の可能性を
    「ただ学問を勤めて物事をよく知る者は賢人となり富人となり」
として学生たちの存在基盤を示していました。
  
父親を早く亡くした子規は叔父大原恒徳を後見人として、母方の祖父大原観山の薫陶を受けて育ちまし   た。建て増しをした時に三畳の勉強部屋が造られたのも子規の将来への期待があったからです。財産が  無ければ学問を積んで身を立てるしかない当時、子規もまた勉強家たるべく道を進むことになります。
漢詩少年として回覧雑誌「桜亭雑誌」を作り、「香雲」と勉強部屋に扁額を掲げていた子規は、自由民権運  動の盛んな中学時代は弁論に熱中しました。時として学業をそっちのけにする子規のエネルギーもこの部屋を拠点に渦巻きました。

又従兄弟の三並良が先に遊学していましたので、松山に居て子規の気持ちはひたすら東京へ向か ってい ました。子規は
   「学べば庶民の子も亦公卿となるべく仮令(たとひ)公卿となるを欲せざるも社会の上流に立つを
    願ふ者に有之候へば学問して其域に至るの手段を為さざるべからず。」
と叔父加藤拓川に遊学の助けを願い出ていましたが、やがて念願が叶うことになりました。

松山中学を退学して遊学した子規の、自分の何を持って世の中に出るかの模索と、子規の内から湧き出  してくる力とのせめぎ合いは東京に舞台を移して本格的に始まりました。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  
    「明治16年6月14日余ハはじめて東京新橋停車場につきぬ人力にて日本橋區濱町久松邸まで
    行くに銀座の裏を通りしかバ東京はこんなにきたなき處かとおもへり」(「筆まかせ」明治17年)

子規にとって東京は刺激の坩堝でした。
東京大学予備門の予備校、共立学校で学びながら子規は新しい書物とも出合って行きます。
東京で為永春水の人情本を知りますが「まだ深入りするには餘り子供らしかった」と、寧ろお茶の水の図書館へ行って『梅墩詩抄』(ばいとんししょう)を読みふけりました。17年に矢野龍溪の『經國美談』が出版され世に喧伝されると、一円以上するその本を友人と出し合って一部買い、「馬琴の著述以外に一歩も踏み出した事のない」子規は大きな感動を与えられました。

子規の髄筆「天王寺畔の蝸牛蘆」(明治35年)は、そんな子規の読書の変遷を、『風流仏』で幸田露伴の   崇拝者となるまでを書いています。その中でも坪内逍遥の『當世書生氣質』との出合いが
   
    「かやうな面白いものがよくも世の中にあったものよ」
    「文章の雅俗折中的なる所から、趣向の寫實的でしかも活動しているところから、其上に從來の
    小説の如く無趣味なものでなく或る種の趣味を發揮してをるところから、何れ一つとして余を驚か
    さぬものは無かったのである。」

と記されています。
 
明治17年の夏、東京大学予備門(19年に第一高等学校と改称)の入試を前にして、子規は進文学舎で   坪内逍遥に英語を習いました。
英文学を修めた坪内逍遥は英文学の理論を基に小説論『小説神髄』を明治18年に世に出し、その実践としての『當生書生氣質』を刊行。勧善懲悪を否定し、小説は人情を描くべきで世態風俗の描写がこれに次ぐとして、その方法として写実主義を唱えました。 実際に会った人物の著述を読むことは、子規にとっては当時の東京の息吹を生に感じることだったかも知れません。

坪内逍遙は『當世書生氣質』で
  
   「富も才智も輻湊(ふくそう)の、大都会とて四方より、入こむ人もさまざまになる、中にも別て数多き
   は、人力車夫と学生なり。 おのおの其数六万とは、七年以前の推測計算(おしあてかんじょう)方。
   今はそれにも越えるべし。到る処に車夫あり、赴く所に学生あり。」  *輻輳・・集まること

と明治15年前後の東京を描き出しました。
正岡子規もその学生達の中の一人でした。

『当世書生氣質』は書生たちの言動を会話体で自由闊達に表現しました。その学業と暮らしぶりはまた自由闊達、偶然に友人と会えば其処で一杯、お金は凡そいつも無い、というような軽妙な展開を随所に見せながら、書生たちの巣立ちを描き出した『当世書生氣質』はまさに書生たちにとっての同時代小説でした。

                                                                  
「筆まかせ」(明治22年)で
  「飛び立つ如く面白く思ひ斯くの如き小説も世にはありけるよと幾度も読み返してあくことを知ら
  ざりき」
  と書きながら更に
  「書生に向っては愉快なれども一個の小説としては餘り幼稚なり」 

と記す見識を子規は持っていました。逍遥の著述を『該撤奇談』『妹と背鏡』『未來の夢』『松の内』『細君』と読み続けていたからです。
この頃の子規は、自分の嗜好は詩作や文章を書くことにあるが、詩人画師などは一生の目的にはならないと思っていること、哲学や文学というものの名前さえも知らなかったこと、好きな学問を見出せば自然と目的が定まり、その好きなものを発達させるように導くことが必要だ、との考えを記しています。

明治23年大学に入学した子規は、詩歌書画などの美術を哲学的に論議する審美学を志して哲学科に学び、やがて明治24年に日本文学科に転科、何を持って世の中に出るかの模索を続けます。
俳句分類を始めたのもこの頃です。
明治25年には小説「月の都」の執筆に励み幸田露伴の評を仰ぎ挫折します。
上根岸に転居した子規は陸羯南主宰の新聞「日本」に「かけはしの記」を連載し、漢詩人へと活路を求めつつ、続く連載は「獺祭書屋俳話」、それは三十八回と回を重ねました。
熱中すると学業をそっちのけにする子規は大事な学年試験の勉強中にランプの笠につぎつぎ思い浮かぶままに俳句を書きとめてしまいます。
子規は落第し退学します。

明治25年12月1日、子規は新聞「日本」の記者として社会に出ることになりました。明治21年の喀血によって自分の人生をあと十年と見定めたこともあったようです。

明治25年に子規は夏目漱石と坪内逍遥の大久保の家を訪ねています。
  
九月二十六日 登校。与漱石訪逍遙子於大久保。

       夕月に萩ある門を叩きけり           (「獺祭書屋日記」)




参考図書  『時代別日本文学事典近代編』有精堂
        『注解日本文学史 』 中央図書
        『当世書生気質』 岩波文庫
       『正岡子規の楽しむ力』 坪内捻典著 NHK出版
        『子規全集』12巻   講談社
        『子規三大随筆』 講談社学術文庫 
        『明治文学全集53正岡子規集』 筑摩書房                                      


                                      (千惠子)
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# by hakusanfu-ro | 2013-04-15 06:57

子規と美術

正岡子規が洋画家浅井忠、中村不折とも交流していたことは知られています。
昨年2012年春に、横須賀美術館で企画展「正岡子規と美術」が開かれましたが、
私が知ったのは会期終了間際、展覧会へは行かれずに残念に思っていましたら、

『俳句への道』高濱虚子著(岩波文庫)の「研究座談会」の
~子規の書と画~に読み至りました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

上野泰氏が虚子に質問をしています。

泰  「子規は晩年、画を盛んに描いていますが、小さい時から、そういう才能があったのですか。」

虚子「子規は子供の頃から、画は好きでした。それにもともと器用な男だから。晩年は文章を書くとか
   歌や俳句に頭を使うことが苦痛になって来ると、よく、画を描いていた。(中村)不折に使い古しの
   絵の具をもらって、描いていた。」

泰  「子規は画を誰かに習ったのですか。」

虚子 「師匠はなかった。写実主義だった。文章でも俳句でもそうだったが。晩年は枕頭に草花の鉢を   
    置いて、よく写生しておった。文章や俳句に頭を使うのが苦痛になると、よく写生しておった。画は、
    見たままを、そのまま描いておればいいから、楽だと言っていました。」

泰 「明治三五年に、
              草花を描く日課や秋に入る   子規
                                      という句がありますが・・・」

虚子「それが楽しみでもあり、慰めでもあったわけです。それが子規の身体に一番楽だったのでしょう。
   そして一番の慰めであった。」

子規は子供の頃から画や書に親しみ、書は松山の書家に習い、中国の書も学んだということです。
晩年は短冊を寝て書いていましたが、子規は字を書くことが面倒ではなく、楽しみであったと、
晩年はことに字が枯れてきたと、虚子は言っています。

また当時の漢詩の仲間には本田種竹、桂湖村、国分青崖という人たちがいたそうです。

深見けん二氏が質問しています。

けん二「子規は新聞社にいたから、交友が広かったようですが。」

虚子 「そうではありません。子規は社会人ではなかった。社会人になり得る資格は持っておったが、
    俗世間に交わることは好まなかった。趣味が広かったから、その方面の友人は多かった。」

けん二「そういう多方面の友人が、子規の教養を高めていたのでしょうね。」

虚子 「そういうことはあったでしょう。」


西洋画が入ってきて日本に「写生」が広がった頃、子規は俳句や文章を書いているうちに、月並では面白くなくなり、西洋画の影響を受けて自然に「写生」へ向かったと虚子は言います。当時を回想する虚子の口調は静かです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


横須賀美術館「子規と美術」展の紹介で、

   「写生」を  「過去の因習や主観を捨て、目の前に見えるものの客観的な描写によって、
           真実に到達しようとする思考のあり方であり、明治という時代の精神を象徴するもの」

と解説してあったことと思い合わせて、
「研究座談会」を読みながら子規の時代の空気と子規庵で臥して暮らした子規を思い浮かべることを致しました。
                                                  
(千惠子)     
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# by hakusanfu-ro | 2013-02-04 21:46

閑話Ⅱ・・子規と果物

梨腹も牡丹餅腹も彼岸かな 明治34年

前回は、子規といえば柿・・ということで柿のことを書いてみました。
今回は、それ以外の秋の果物について。

子規が「仰臥漫録」を書いた明治34年ごろに、日本人はどんな果物を食べていたのでしょう?
子規は「くだもの」の中で「バナナ、パインアツプルは旨い」と書いています。そんな南国の果物がなぜ子規の口に入ったかというと・・明治28年には台湾が清国から割譲されていますから、台湾産のものが出回っていたのでしょう。
果物が異常に好きな子規は「くふたことのないのは杉の実と万年青の実くらいである」と書いています。桑の実・榎の実・木苺・苗代茱萸(ぐみ)など、自然の中にあるものを子規は子供の頃から好んで食べていたようです。鳥の食べるものには毒がない、と言いますから、昔から人間は鳥に教わって食べていたのです。
でも、子規が「杉と万年青以外は何でも食べた」というのは勢いで書いてしまったことだろうと思います。
数年前、一緒に散歩していた知り合いの少年が、鳥が美味しそうに食べていたから、と赤い木の実を口にしてその苦さに七転八倒したことがあります。ご注意を。

「仰臥漫録」は、寝たきりとなっている明治34年年9月から、一時中断があって35年9月までの記載があります。生前は発表されなかったので個人的な「病床日記」であったと思われます。
そこには普通の日記風の記録と同時に毎日の食事内容が克明に記載されています。書き始めたのが9月ですから果物の季節。
食べた果物は、梨に始まり、栗・柿・林檎・葡萄・蜜柑、と現在と同じものです。しかもそれを毎日二種類くらい食べています。

9月10日に食べた果物を抜き書きしてみると・・
昼食・梨2個、林檎1個
間食・梨2個、林檎1個、焼き栗8~9個、ゆで栗3~4個
夜食・梨2切れ、林檎1個
ちなみに、昼食も夕食も健常人と同じだけ食べています。いえ、それ以上に食べています。
9月のこの時期に林檎・・今とは違い冷蔵保存の出来ない時代に?と思いましたら、前日に虚子の使いの者が、青林檎20~30個を見舞いに持参、とありました。
今でも青林檎は秋の始めに出回ります。が、当時から同じように出回っていたとしても、林檎は東京近辺では収穫出来なかったはず。かなりの贅沢品だったと思われます。 
ちなみに、上に記載した果物は、林檎を除きすべて昔から日本に渡来していたものです。が、品種改良などで今のような品種を安定栽培できるようになったのは明治になってから。東京近辺で栽培出来ていた梨や栗・柿はいざ知らず、葡萄や蜜柑・林檎などどんな運送法をだったのかしらん?と考えてしまいます。
子規の死後半世紀経った私の子供時代、戦争直後に食べた果物は、子規が書いているのと同じく自然にあるものと庭にあるもの・・イチジク・柿・枇杷・・くらいでした。林檎は大変な贅沢品で、箱の籾殻を探って出てくる林檎は宝物のように見えました。1個を姉妹3人で切り分けて食べたことを思い出します。

話が脱線してしまいました。でも「仰臥漫録」から明治の食生活を分析してみるのも興味深いものがあります。

栗飯や病人ながら大喰ひ      明治34年
かぶりつく熟柿や鬚を汚しけり     〃
                                       (玖美子記)
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# by hakusanfu-ro | 2012-12-27 15:16

閑話・・子規と柿

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 明治28年

子規に「くだもの」という随筆文があります。明治34年の春の執筆ですから、病床であれこれと果物のことを考えて書いたのです。(筑摩書房・現代日本文学大系「正岡子規」より)
その中の「くだものと余」というところには・・子供の頃から好きだった、と言い、
「書生時代に・・二ケ月分の学費が手に入つて牛肉を食ひに行ったあとでは、いつでも果物を買ふて来て食ふのが例であった。大きな梨ならば六つか七つ、樽柿ならば七つか八つ、蜜柑ならば十五か二十位食ふのが常習であった」
と記述しています。買い置くのではなく、一度にそのくらいは食べてしまう、ということなのです。若いころとはいえびっくりする量です。
この「くだもの」の最後に、明治28年に奈良の宿に泊まったときに食べた柿のことが詳しく書かれています。
千惠子さんの子規の年表をご覧いただけば、その時期が子規の生涯のどこにあたるかが解ります。
おおよその内容は(引用部分はそのまま写しました)

 病気療養していた故郷から上京する途中の十月末に、三日ほど奈良に滞在。柿がたくさんある奈良の風景に魅了された。そして、宿でその「御所柿」をたくさん持ってこさせて食べる。下女が、一尺五寸もあるような大丼鉢に山のような柿を持ってきて、それを剥いてくれた。
「・・やがて柿はむけた。それを食ふてゐると彼は更に他の柿をむいてゐる。柿も旨い、場所もいゝ。余がうつとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音が一つ聞えた・・あれはどこの鐘かと聞くと、彼女は、東大寺の大釣鐘が初夜(そや)を打つのであるといふ・・」
東大寺は宿のすぐそば、東大寺が自分の頭の上にあるような位置だったのです。

※初夜・・戌の刻、またその刻におこなう勤行。

柿くへば鐘が鳴るなり東大寺・・だったのです。

果物の中でも一番好きだった柿。さて、法隆寺の句以外の子規の「柿食ふ」句は、というと

柿くふや道灌山の婆が茶屋    明治29年
淋しげに柿くふは碁を知らざらん 明治31年
柿もくはで随文随答を草しけり   明治32年
柿くふも今年ばかりと思ひけり   明治34年
                    以上、「寒山落木」より
※「随文随答」は、「ほととぎす」に連載した、俳句に関する一問一答の欄だったようです。

本当に好きだったのですね。最後の句の翌年には柿を食べることなく世を去りました。心残りだったことが思われます。

歳時記(角川書店)に、こんな句があります。

柿食へと天よりの声子規波郷   草間 時彦

私自身のこと。
子規の人生より倍も生きてしまいましたので、生まれてから今までに数多くの果物を食べました。異常なほど果物好きの子規の食べたものよりも、種類は多いことでしょう。でも、最近は「果物で何が好き?」と問われたら多分「柿に勝るものはない」と答えるでしょう。
美味しい、と思う果物のあれこれを食べてきて、結局は子供のころに親しんだ柿へ戻ってしまったのです。さて、来年も食べられるように私は元気で居なくては。

「子規と果物・食べ物」については、また考察したいと思います。 (玖美子記)
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# by hakusanfu-ro | 2012-11-07 16:35

子規庵

9月19日の子規忌に
久しぶりに子規庵へ行ってみました。

子規庵保存会が遺品展を開いていて、八畳間と六畳間に、墨、硯、文鎮、落款、
千枚通し、舶来の黒眼鏡、ランプなど、子規の愛用品が公開されていました。

籠に一羽の鶉がいました。
豆腐料理「笹乃雪」の社長さんが飼っている鶉を借りているそうで
「鶉も毎日子規庵に出勤しているんですよ。」と保存会の人が教えてくれました。

その傍らに子規が描いた「鶉」の絵が添えられています。
明治32年春、高濱虚子から貰った鶉はつがいでした。後年子規が鶉を描いた時には
すでに一羽になっていましたが、子規は鶉を寄り添わせて二羽描きました。

糸瓜棚の向こうに白萩と鶏頭の花が咲いています。

今までは子規庵に上がると、終焉の六畳間に座って机と糸瓜棚を見てから
庭を歩いて帰って来ていましたが、今回は
六畳間の襖隣の四畳半が律さんの部屋であったこと、八重さんは御台所脇の
三畳間に就寝されていたこと、を教えていただきました。その三畳間には
『獺祭書屋俳句帖抄上巻』が硝子ケースの中に展示されていました。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

河東碧梧桐の回想によると

明治35年9月18日の午前11時頃、
律が画板を支えると、子規も自分の左手で画板の下を持って、
板に貼った唐紙に墨で糸瓜三句を書く・・

糸瓜咲いて痰のつまりし佛かな   (紙の真中に)

痰一斗糸瓜の水も間にあはず    (左に)

をととひのへちまの水も取らざりき  (右の余白に)

の順番で書いて、
子規は筆を置くことも大儀そうに筆を持ったままにしていて
穂先がシーツに落ちて墨のが痕がついた・・・


碧梧桐は子規の筆跡の確かさから、まだ死を予想できずに
『ホトトギス』の校正をするために帰りました。

絶筆三句が書かれた唐紙は東京国立博物館に保管され
子規庵の庭にはこの三句の句碑があります。
雄渾ともいえる子規の筆跡です。

明治35年9月19日午前1時頃、子規は永遠の眠りにつきました。  

子規の亡きあと、八重さんと律さんが住み、
やがて律さんが裁縫を教えながら住んだ子規庵。
昭和20年の空襲で子規庵は焼失しましたが、
子規の蔵書、資料は子規庵の庭の蔵に保存されて戦火を潜ることができました。
子規庵の隣に住んでいた寒川鼠骨(さむかわそこつ)が建てた蔵です。
今の子規庵は鼠骨が中心になって昭和26年に建て直されたものです。  


                                  
  参考 「子規庵友の会だより」第5号(8月25日発行)
      子規庵「年表」
      『子規全集』第22巻年譜、別巻2  講談社
                                 (千惠子)
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# by hakusanfu-ro | 2012-11-07 09:10


正岡子規に学ぶ


by hakusanfu-ro

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