子規の「平気」 『病牀六尺』

学生時代から細く長く続いている四人仲間の交流の場で、正岡子規を話題にしましたら、「平気」が高校の教科書に載っていると教えられました。高校生も読んでいる「平気」を私も読んでみることにしました。東京書籍『現代文精選』執筆者は長谷川櫂氏です。

 第一段落  子規の、鉄板で炒られるような痛みと闘う生活を支えた、「平気」の一語
  第二段落  何にでも笑いの薬味を添えた滑稽家の子規
  第三段落  臨終の場面で、子規自身へ向けられた滑稽の精神

 長谷川氏は 「絶筆三句こそが子規の面目躍如の句である」 と結論しています。
 
私が正岡子規の名前を知り記憶に留めたのはやはり教科書からでした。

    瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
    
    いくたびも雪の深さを尋ねけり

こうした作品から子規が病床に伏せて俳句や短歌を詠んだことを知りました。
今の高校生は子規の内奥の究極の言葉に接している、それは新鮮な驚きでした。
去年子規庵で買った岩波文庫『病牀六尺』を取り出しました。読みやすいワイド版です。 

  
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「平気」の一語とは『病狀六尺』明治35年5月31日の言葉です。

   「余は今まで禅宗の所謂悟りという事を誤解していた。悟りという事は如何なる場合にも平気で
    死ぬることかと思ってゐたのは間違ひで、悟りとゐう事は如何なる場合にも平気で生きて居る
    ことであった。」

「5月は厄月」と言っていた子規はこの年も5月13日に生死の境をさまよう激痛に襲われました。その5月をどうやら乗り越えて、上の文章を31日に書いたのです。『病牀六尺』は明治35年5月5日から子規の亡くなる二日前の9月17日まで新聞『日本』に連載された子規の最後の随筆集です。

高濱虚子の口述筆記により

   「病牀六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病牀が余には広過ぎるのである。」

と書き始められた第一回。病状と苦しみを書いた後に、土佐の柏島の水産補習学校を話題に取り上げてこのような校長の元で教育を受けたら楽しいであろうと記しています。
牡丹、寒牡丹の話から上方、東京の音曲、美術、俳句の比較へと思考を巡らし(三)
欧州に二十年滞在した人からの話をもとに、日本を外国とを比較検討するその断定の小気味良さ。
                                                         (二十三)
子規が六尺の病牀から発信する話題は・・猟銃の話・・釣りの餌の話・・硯の話・・団扇の話・・炊飯会社・・双眼写真・・と多様な面白さです。就職の際に陸羯南が見込んだ子規の大人ぶりも随所に発揮され、女子教育(六十五)、家庭教育(九十六)と広い知識と見識が示されています。

最晩年の病床で、子規の思考力と審美眼は比較検討を怠りませんでした。
西洋画と日本画を比較し、南岳・文鳳を比較し、円山応挙や安藤広重の画帖を丹念に鑑賞します。ある時は『光琳画式』と『鶯邨画譜』をつくづくと愛でて鑑賞を深めて行きます。

謙信と信玄のどちらが好きか。西洋酒と日本酒は。西洋梨と日本梨は。碁の手将棋の手。
子規の旺盛な好奇心と比較検討する楽しさに私は子規の病状を忘れていました。

河東碧梧桐から借りた硯を詠んだ三句があります。
    
    
    墨汁の乾く芭蕉の葉巻かな
    芍薬は散りて硯の埃かな
    五月雨や善き硯石借り得たり

碧梧桐が貸してくれた亡兄のかたみの硯には芭蕉の葉が彫られていたようです。 道具の贅沢はしようとは思わなかったが、硯だけは良いものが欲しいと思いながらも大金は出せぬと諦めていた、と子規は言います。この石材はあまり良いものとは思われないが、などと言いながら、子規は朝夕この硯を眺めていたのです。    (三十二)

暑さに耐えかねた子規のために碧梧桐が風を起こす機械のようなものを作りました。子規はこれを風板と名付けます。

    風板引け鉢植の花散る程に     (六十八)

穏やかな時間は常に苦痛の上にありました。三十八回には、「如何にして日を暮すべきか、如何にして日を暮すべきか。」の言葉が記されています。子規における「平気で生きていること」の真意が「如何にして日を暮すべきか」の言葉によって明らかにされます。苦痛を封じ込む闘いが「平気で生きている」ことでした。枕元に届いた様々な品物や絵画、画帖に慰められながら、食を楽しみながら、子規は「平気」で生きる意志を持ち続けました。多くの友人、門人が子規の枕元に集うことで子規は社会との関わりを持ち続け、友人に助けられながら生の証である執筆を続けました。

次の四十一回はそんな子規のある一日を伝えています。

    この日逆上甚し。新しく我は慰めたるもの

    1、果物彩色図二十枚
    1、明人画飲中八仙図一巻(模写)
    1、霞崖画花卉粉本一巻(模写)
    1、汪淇模写山水一巻
    1、煙霞翁筆十八しゅん法山水一巻(模写)
    1、桜の実一籃
    1、菓子麺包各種
    1、菱形走馬燈一箇

     来客は鳴雪、虚子、碧梧桐、紅緑諸氏。
     事項は『ホトトギス』募集文案、蕪村句集秋の部輪講等。

     食事は朝、麺包、スープ等。
     午、粥、さしみ、鶏卵等。
     晩、飯二椀、さしみ、スープ等。
     間食、葛湯、菓子麺包等。
     服薬は水薬三度、麻痺剤二度。     (四十一回)

この日は麻痺剤を飲むこと二回、数巻の日本画を鑑賞しさらに模写をしています。
子規の勤勉さと我慢強さ、強靭な精神力が思われます。子規は六尺の病床で山水画の自然を胸中に取り入れて想像の世界を楽しんだことでしょう。古今東西の絵画、画譜画帖の自然空間に自由に想像の翼を広げて、子規は渓谷を見下ろしながら山道をたどり、竹林の風音に聴き入ったことでしょう。

子規は予てより絵が好きでした。明治32年頃から自ら描くことを楽しむようになり『果物帖』『草花帖』を残しました。花の色を出すために絵の具を滲ませたり紙に穴が空くほどに重ねたりしながら、子規は色彩の美しさに没入する時間を過ごします。その楽しさは優しく美しい言葉となって『病牀六尺』に記されました。

    草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分かつて来るよう
    な気がする。                                      (八十七)
    神様が草花を染める時もやはりこんなに工夫して楽しんでいるのであろうか。(八十九)

上澄みのような美しい言葉を記した『病牀六尺』は、百二十七回(9月17日)

    俳病の夢みるならんほととぎす拷問などに誰がかけたか

の歌で終わっています。               


 子規の絶筆三句はその二日後に詠まれました。 

      糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
      痰一斗糸瓜の水も間にあはず
      をとといのへちまの水も取らざりき 

            合掌  



 参考図書 『現代文精選』 東京書籍
        『俳句的生活』 長谷川櫂著 中央公論新社
        『病牀六尺』 正岡子規著 岩波書店     

                                           (千惠子)  














   
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# by hakusanfu-ro | 2013-10-26 08:33

閑話・子規と野球

野球殿堂博物館(東京ドーム併設)に入ると、まず目につくのは天井から下がった子規の句の展示です。

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子規は「野球」の「名付け親」とされています。子供のころから野球大好きな私も、俳句を始めるずっと前からそう信じていました。
本名の「升」「のぼる」「のぼーる」から筆名を「野球」としていたとも。
ところが、何年か前に子規がベースボールを「野球」と正式に名付けた訳ではない、というようなことを目にしました。そうかあ、と思いつつ日が流れ、ようやくこの機会に、と調べる気になりました。

野球好きの、かなりマニアックな内容もありますので、野球に興味ない方は覚悟されるか、読み飛ばしますように。なお、野球の歴史などは、
神田順治著「子規とベースボール」1992年ベースボールマガジン社発行
から引用しました。

野球の伝来は、説は色々ありますが、明治6年に開成学校(のちに子規の入学した大学予備門・後の一高)の米人教師がひろめていった、というのが定説のようです。文明開化時代、地方にも米国人教師は居ましたから、野球らしきものはしていたかもしれません。
明治11年には、東京や横浜にはすでに野球倶楽部があり、大学予備門にもチームがあったのです。日本人の文化やスポーツの吸収力の速さにはびっくりします。
ですから、子規は明治17年に大学予備門へ入学したと同時に野球を始めています。明治19年の「一高寄宿新報」には、ピッチャー正岡常規の名が残されていて、かなりの名左腕投手だったようです。また、捕手もつとめました。
捕手は野球チームにとって「かなめ」の選手、捕手が良ければチームが強くなるのは、今のプロ野球でも解ります。ともかく、子規は野球にかなり詳しい名選手だったのです。
明治20年の「筆任勢(ふでまかせ)」には、日本の遊び数々あるものよりも、ベースボールが一番面白い、ということを書き綴っています。
「(ベースボールの試合の)戦争の烈しきことローンテニスの比にあらず(略)・・攻めては戦場を馳せまはり防ぎては弾丸を受けて投げ返しおつかけおどし・・(略)・・敵を脅し不意打ちあるは挟み撃ちし・・」
剣術も柔術もしなかった子規が野球に嵌ったのは、まさに「フィールド上における戦争のかたち」に惹かれたからなのです。言ってみれば、刀を取り上げられた士族にとってバットはそれに代わる「武器」、ボールは弾丸であり。まさにルールのある「戦争ごっこ」だったのです。
さらに続きます
「・・ベースボールほど愉快にて満ちたる戦争はなかるべし」

さて、私は「野球」とか「投手」とか今風に書いていますが、当時はすべて片仮名で「ベースボール」「ピッチャー」と言っていました。
では野球、という文字が初めて出てきたのは・・
明治22年、第一高等中学校(のちに一高)に通学していた子規は本郷の常盤会宿舎(元伊予藩主の作った、今で言えば県人会寮)から通学していました。その寄宿仲間に子規は野球を広めました。
明治23年、「筆任勢」に子規は
「・・雅号をつけることを好みて自ら澤山撰みし中に・・今日余の用ゆる号ハ左の如し」と、二十七の雅号を列挙しています。
「常規凡夫 丈鬼 子規 獺祭魚夫 秋風落日舎主人 ・・(中略) ・・ 野球」
最後に野球、とあるのです。
子規のユニフォーム姿の写真は、明治23年ごろのもの、と言われています。
当時のグローブ・バットと並べ、野球殿堂博物館に陳列されています。

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この写真が明治23年だったとすると、9月には大学へ進学していますからそれまでの一高時代に撮ったと考えられます。大学に入ると学業が大変なため、野球を続けるのは難しかったようですが、前年に喀血した子規には次第に、野球をする体力は失われていったことでしょう。
かといって、子規は野球に興味を失った訳ではなく、明治29年には「松蘿玉液」 (新聞日本掲載)の中で、ベースボールについて詳細かつ綿密な解説をしています。そこでも、子規の文章はすべて「ベースボール」としかありません。子規には、野球という文字が雅号のひとつでしかなかったのです。

初めてベースボールを野球、と訳したのは、一高で子規の三年後輩の「中馬庚(ちゅうま かなえ)」でした。
明治27年に中馬は「野球」という訳語を使っています。
Ball inField = 野球です。野原での球競技、という訳です。
明治28年2月、中馬が「一高野球部史」に、初めて「野球」と書いています。ところが・・子規と中馬は、一高時代に交流はなかったのです。つまり、3年後輩のため、子規と一緒に野球をしたという事実が残っていません。
ことによると、中馬は、子規の雅号「野球」をどこかで見て、それが脳裏に刻まれていたのかもしれません。
また、中馬は明治30年に日本で初めての「野球」という野球解説書を書きました。野球殿堂博物館にその本が陳列されています。内容を読みたいところですが厳重にガラスケースの中。
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しかし、明治時代に、野球という訳語は普及しませんでした。
「松蘿玉液」に書かれた「ベースボール解説」の最後に、子規はこんな断り書きを残しています。
「ベースボールはいまだかつて訳語あらず、今ここに揚げたる訳語はわれの創意に係る・・」と。
すでに後輩の中馬庚が「野球」という訳を使っていたことは、病床の子規には伝わっていませんでした。

ならば、今の「野球」という訳語が普及したのはいつからのこと?
東大野球部監督として名を馳せ、その後も様々に野球界に貢献した「子規とベースボール」の著者・神田順治氏によれば、子規以後、野球用語は訳されたかたちで記事にはなっていました。ことに朝日新聞は「ピッチャー キャッチャー」などというカタカナ表記は一切せずに漢字をつかっていたとのこと。
大正3年に朝日新聞の野球記事を嘱託されていた遠藤なる人物が、野球用語を細かく訳して整理しました。その時に「ベースボール=野球」が公的に使われるようになったようです。しかしそれが一般に普及したのは大正の終わりころではないか、というのです。
子規が名づけ親、と思っていたことを裏切られるような結果になってしまいました。が、ここでがっかりしてはいけません。
前述の「松蘿玉液」を読むと、そのベースボールについての解説の内容は、ルールから楽しみ方まで、実に野球を余すことなく解釈しているのです。フィールド(グラウンド)の図もあり、道具の説明もあります。
9名の選手の邦訳 本基 第一基 第二基 第三基 投者 短遮(ショート)
など、図を見ながら読めば何も知らない人でも解ります。走者打者 など今でも使っている訳もあります。子規は英語には堪能でしたから「ベース」にこだわり、Bace=基礎→基、の訳語になりました。塁、は砦の意味ですが、直訳すれば、基、という方が正しいでしょう。子規は訳するのに「英語の意味」に忠実でした。

子規の「松蘿玉液」の野球も今の野球も、日本で野球は「戦」です。これは、一高野球から始まったもので・・これを書くのは子規と離れるのでやめておきます。野球の基本をここまで情熱を傾けて書いた子規は、まさに「日本野球の先駆者」と言われるにふさわしいものです。

子規と虚子・碧悟桐が松山で最初に出会ったのは、野球が縁でした。(子規と虚子に記載)。
明治22年ごろ、すでに地方都市で中学生に野球を教えたのは、おそらく一高~帝大とすすみ帰郷して教師となった人たちだと思います。後年、中馬庚もまたその一人となりました。そうして、一高から始まった「武士道野球」は普及し、大正4年、全国中等学校野球大会(今の全国高校野球大会)となりました。

私は中学の終わりから高校の途中までを愛媛のお隣、香川県高松市で過ごしました。当時、四国は「野球王国」と言われ、高校野球はことに愛媛県が非常に強かったのです。当時は北四国大会に各県の勝ち残り2校ずつ計4校が出場、それに勝てないと甲子園には行けませんでした。
子規が通い漱石が教師をしていた「松山中学」は、後年「県立松山東高校」となり、甲子園で1回優勝しています。ちなみに、同じ市内の松山商業は昭和・平成と、甲子園で4回も優勝しています。
そうした強い愛媛の学校に負けまい、と切磋琢磨して、四国全体が「野球王国」とまで言われるようになりました。それもまた子規の作り上げた基礎の上にあったのでしょう。
しかし、松山の球場がなぜ「坊ちゃん球場」なのでしょうか。「子規球場」と名付けて欲しかったと思います。
ちなみに、ふるさとには子規の名の球場は残りませんでしたが、上野公園内にある都立の野球場は平成14年、「正岡子規記念球場」と名付けられました。
子規は明治23年に上野公園の広場で野球に試合をしたことがありますし、上野に近い根岸で永眠しましたから、ふさわしい名づけです。球場には前述の句を刻んだ句碑もあるそうです(残念、近くを通りながら、見たことがありません)

夏草やベースボールの人遠し  子規 明治31年

参考 神田順治著「子規とベースボール」1992年ベースボールマガジン社発行
    子規全集十八巻   講談社
    野球殿堂博物館
                                                (くみこ記)
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# by hakusanfu-ro | 2013-08-04 16:10

閑話・・子規と鰻

お断りしておきますが、私が唯一口に出来ない食べ物は鰻です。喰わず嫌いではありません、長い人生で三度、食べたことはあります。我がことはさておき、そんな訳で鰻に詳しくはないので間違った「鰻情報」もあるかもしれません。


明治34年9月12日、食欲旺盛な子規が食べた夕食(「仰臥漫録」より)
 飯一碗半 鰻の蒲焼七串 酢牡蠣 キャベツ 梨一つ 林檎一切れ

この「蒲焼七串」がずっと私の頭から離れませんでした。
鰻の一串は、多分、一匹の半身のこと。それは江戸時代から変わらない量だと思います。仮に大きな鰻で四分の一だったとしても、量は変わらないはず。
では、今の普通の大人が一度に食べる量は・・豪華なうな重でも二串でしょうか。鰻好きな男性に聞いてみたところ、結構脂っぽいから飯抜きでも三串以上は食べられないだろう、との返答でした(値段は考えないとしても)。
病床にある子規の健啖は、この「蒲焼七串」がもっとも語っているかもしれません。

「蒲焼七串」が頭にあって先日読んだ夏目漱石の回想談に、なるほど、と思う内容がありました。(ホトトギス・子規居士七回忌号より)
その回想談の最初の話。明治28年8月、子規は療養のために須磨から故郷の松山へ戻り、松山中学の教師だった漱石の下宿に逗留します。下宿といっても4室ある二階建て、結核の子規はその二階で静養していました。そこへ子規の門下生が毎日のように大勢訪れて、
「・・僕は本を読むこともどうすることも出来ん。(・・略・・漱石は)兎に角自分の時間といふものが無いのだから止むを得ず俳句を作った。其から大将は晝になると蒲焼きを取り寄せてご承知の通りぴちゃぴちゃと音をさせて食ふ。其れも相談も無く自分で命じて勝手に食ふ。まだ他の御馳走も取寄せて食ふたやうであったが僕は蒲焼のことを一番良く覚えて居る。それから東京へ帰る時分に君拂って呉れ玉(ママ)へといって澄まして帰っていった。僕はこれには驚いた。・・」
子規は鰻の蒲焼が大好物だったのです。自分の分だけではなく、もしかしたら集まる門下生にもふるまったかもしれません。
明治時代、鰻は今ほど高価なものではなかったと思います。昭和20年代でもわが田舎の海辺の村では川に鰻を捕る仕掛け(ツッポと言っていました)がありました。が、漱石の談に「他の御馳走も・・」とあるので、蒲焼が安価なものではなかった、と推察されます。
当時の漱石の俸給(月給)は80円。上級公務員の初任給が50円、銀行員の初任給が約35円という時代(ネット調べ)ですから、英語を教えることの出来る漱石はかなりの高給待遇でした。とはいえ、朋輩の友人が食べ放題に食べて、あとを任された漱石の呆れようが推測されます。

話を蒲焼七串、に戻します。
七串を食べた直後の14日の夜半(午前2時ごろ、とありました)子規は腹痛に襲われて「絶叫号泣」して、一日絶食。
翌15日にはお粥でしたが、昼食には泥鰌鍋を食べています。
翌16日の夕食には、また鰻。だだしその量は書いてありまん。
この日、子規は「大坂デハ鰻ノ丼ヲ「マムシ」トイフ由聞クモイヤナ名ナリ僕ガ大坂市長ニナツタラ先ヅ一番ニ布令ヲ出シテ「マムシ」トイフ名ヲ禁ジテシマフ」と書いています。
いかに鰻を愛していたかが解ります。鰻もマムシも嫌いな私には何とも言い難く・・

私の中では現代の蒲焼なるものは高級品、という概念がありますから、当時の値段を知りたくなりました。
その月の29日の夕食には「鰻飯一鉢(十五銭) 飯軟ラカニシテヨシ」と書かれていました。わざわざ料理の良しあしを記述するのは珍しいことです。鉢、ということは鰻丼だったのでしょう。刺身一皿15銭、などという記述もありますから、現代のようには高価ではないけれど庶民にはちょっと贅沢、という食べ物だったのでしょうか。
その翌日の9月30日、子規は家計について詳しく述べていて、日本新聞社から40円、ホトトギスから10円、合計50円の収入で母と妹との暮らしを立てていたことになります。参考までに、渡英前の熊本時代の漱石の月給は100円とか。
上述の通りの世間の給料からすれば、少しは贅沢な食べ物も許される収入だったのでしょう。とはいえ、同じような贅沢を母や妹はしていたのかどうか・・「病人には滋養をつけねば」という時代、きっと母も妹・律もつつましい食事をしていたのではないでしょうか。
律が子規に命じられて鰻屋へ急ぐ姿を思い浮かべると、ちょっぴり哀れを催します。

母と二人妹を待つ夜寒かな   子規 明治34年
いもうとの帰り遅さよ五日月      〃


参考 現代日本文学大系(筑摩書房)正岡子規編
    子規全集(講談社)別巻二 回想の子規(一)

※引用の字については、旧漢字を略したところもありますのでご了承願います。 (くみこ記)
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# by hakusanfu-ro | 2013-06-27 15:39

子規と虚子・・道灌山の茶屋

柿くふや道灌山の婆が茶屋    明治29年

この句が作られた明治29年の3月、子規は結核性脊髄炎と診断され、いよいよ身動きのとれない闘病生活に入ります。29年に作られたこの句は本当に茶屋に行ったのだろうか?とふと疑問に思いました。無論、根岸では頻繁に句会が開かれていたのですから即吟であっても良いのですが。

ところで、この「道灌山の茶屋」については、虚子の「子規居士と余」(大正4年著)にとても詳しく書かれています。
前年の28年、従軍中に喀血して倒れ、神戸で生死の淵をさまよった子規を、京都から駆け付けた虚子が看病した話はよく知られています。ドナルドキーン氏の「正岡子規」にも書かれています。そして、病状安定したのち、須磨の保養院へ移り、虚子もまたそこでも子規を看病。自分の余命を悟った子規は虚子に「自分の後継者となって欲しい」と申し出て、虚子はうやむやの返答で別れました。虚子22歳の夏のこと。まだ自分の生きるべき道を模索中の若者に即答が無理なことは当然でしょう。
そしてその年末に子規は東京へ帰り、いよいよ根岸での闘病生活が始まるのです。が、29年の初めころにはまだ腰痛に耐えながらも外へ出ることは可能だったので、虚子は子規に呼び出されて道灌山の茶屋まで同行します。

道灌山は、今も地名には残っていて、西日暮里駅の西側あたりかと思われます。根岸からは、歩いてもさほどの距離ではありません。
かつて太田道灌の出城があったと言われていますが、現在はほとんどその形跡すらないとか。ただ、江戸時代には平野を見渡せる景勝地だったようで、明治の頃にはまだその名残りがあったのでしょう。「子規居士と余」によると
「・・稲を刈り取られた寒い田圃を見遥るかす道灌山の婆の茶屋に腰を下ろし・・」
とあります。
おそらく子規はその店へ行ったのは初めてではないと思われます。
子規が「菓子をおくれ」と婆さんに注文すると、大豆を飴で固めたような菓子を一山持ってきました。虚子はその一つだけを食べました。山盛りの菓子、あとは子規が食べてしまったのでしょう。
この茶屋で二人は長々と語り合います。そして「後継者になって欲しい」と再度促しますが、虚子はきっぱりと断ります。
後継者という位置づけにはなりませんでしたが、虚子が子規の薫陶を受け、その師系が脈々と続いてることは、俳句を志す者の皆知るところです。

子規と虚子のその後の人生に、この「道灌山の婆の茶屋」は重要なターニングポイントだったのです。
29年、子規は何度か吟行に出かけています。「寒山落木」には「車ニテ上野ノ桜ヲ見テ還ル」とありますから、痛みに耐えながらも車(人力車)にに乗って句仲間と遊吟出来る体力のあった最後の年だったのでしょう。
その後も、雨の板橋・赤羽へ一泊、仲秋の上野、目黒、そして船橋の中山寺へ一泊、と遠出しています。
が、年末にはついに褥瘡が出てしまいますから、その後は病床から動けなくなりました。

虚子から後継者を断られた道灌山は、多分子規にとって生涯忘れ得ない場所だったに違いありません。その茶屋で本当に柿を食べたかどうかは定かではありませんが、柿の句として残したことにその重要さが感じ取れます。

私は日暮里方面には疎いのですが、5年前、やむにやまれぬ事情で日暮里から西日暮里を歩いたことがあります。起伏の多い土地で、今はJRのたくさんの線路で東西が分断されていて、今は決して風景の良い場所ではありませんでした。
今度、機会があったら根岸から道灌山まで歩いてみたいと思いました。

   漱石が来て虚子が来て大三十日(おおみそか)  子規 明治28年



参考・・現代日本文学大系(筑摩書房) 正岡子規
         々               高浜虚子

                                (くみこ記)
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# by hakusanfu-ro | 2013-06-16 14:32

正岡子規と中村不折

坪内逍遥の「小説神髄」以後、個人の署名のある文章が読者層の心を掴む社会構造が生まれました。
個我意識の覚醒と商業ジャーナリズムの発展により、雑誌、新聞の発行が相次ぎ、「批評」の時代が
到来したのです。
明治22年、新聞「日本」を創刊した陸羯南は、「国民精神の回復発揚」を目的の一つに掲げて、西欧に
範を求めた思潮を克服する一歩を踏み出します。伝統詩の再生に取り組み始めていた正岡子規は叔父
加藤拓川の仲介を得て陸羯南と出会い、新聞社「日本」の社員となりました。
28年に創刊した俳誌「ほとゝぎす」とともに新聞「日本」は子規の文学活動の拠点となって行きます。


       根岸草庵
    紅梅の隣もちけり草の庵    (明治26年)

子規は母と妹を東京に呼び、陸羯南の家の西隣 下谷区上根岸八十八番地 に一家を構え
文学に没頭していきます。

中村不折と出会ったのも新聞社「日本」でした。
挿絵画家を探していた子規は近隣に住む美術教授浅井忠から洋画家中村不折を紹介されました。
子規は「写生」によって俳句短歌の革新を成し遂げますが、そこに中村不折の存在は大きく関わりを持ちました。「写生は画家の語を借りたるなり」(明治32年「叙事文」)と、述べているように、不折の西洋画論からヒントを得て写生(写実)の用語を得ました。


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「頑固なる日本画崇拝者」で

     油絵の彩色多き暑さ哉   (明治26年)

という俳句を作っていた子規は
「不折君に逢ふ毎に其畫談を聴きながら時に辯難攻撃をこころみ其度毎に發明する事少なからず。」と
洋画に開眼しながら

           不折来る
   絵かきには見せじよ庵の作り菊    (明治28年)

         不折新居
   葉鶏頭の苗養ふや絵師が家      (明治31年)

折レ曲り折レマガリタル路地ノ奥ニ折レズトイヘル画師ハ住ミケリ
(中村不折ノ住処ヲ問ヒ来リタル芳雨ヘ。明治32年)

不折との交流を深めていきました。

新聞「日本」連載の「墨汁一滴」には明治27年3月に不折と出会ったこと、不折への信頼、不折からの影響、洋行する不折への気遣いがせつせつと五日間書き継がれました。その中でも次の箇所は

     「始めて君を見し時の事を今より考ふれば殆ど夢の如き感ありて、後來余の意見も趣味も君の
      教示によりて幾多の變遷を來し、~略~」 

     「君の説く所を以て今まで自分の専攻した俳句の上に比較してその一致を見るに及んで~中略~
     美術の大意を教えられし事は余の生涯に幾何の愉快を添へたりしぞ、若し之無くば數年間病壯に
     横たはる身のいかに無聊なりけん。」    

と子規が「写生」の考え方を掴んでいく様子を伝えています。
また子規は自らが作句で「写生」を実感したことを

「~(明治27年)秋の終りから冬の初めにかけて毎日の様に根岸の郊外を散歩した。其時は何時でも一冊の手帳と一本の鉛筆とを携へて、得るに随て俳句を書きつけた。写生の妙味は、此時に始めてわかつたような心持がして、毎日得る所の十句、二十句な獲物は、平凡な句が多いけれども、何となく厭味がなくて垢抜がした様に思ふて自分ながら嬉しかつた。」

と明治35年『獺祭書屋俳句帖抄上巻』序文で述懐しています。

中村不折は 「写生」によって古人の見いだせなかったものを「発見」することにオリジナリテイ―がある(「俳画法」)と考えていたようで、この書物は子規の死後に刊行されましたが、この考えは子規にも影響を与えていたと思われます。
子規は「油画が這入って来て、いよいよ写生が完全に出来るようになった。此写生は無論感情的写生であつて、人がものを見て感ずる度合に従つて画く~(略)」(「写生写実」)と述べました。俳句は「趣向は実景実物を見て考へ起すべし。必ず新しき趣向を得ん。」として、「写生といひ写実といふは、実際有りのままに写すに相違なけれども、固より多少の取捨選択を要す。取捨選択とは面白い処を取りてつまらぬ処を捨つる事~(略)」(明治33年「寒玉集」) と著しています。


 明治32年 子規は次のような俳句を詠んでいます。    

          自ら自らの手を写して
     樽柿を握るところを写生哉  

             
          自ら秋海棠を画いて(三句のうち二句) 
     病床に秋海棠を描きけり   
     紙ににじむ秋海棠の絵の具哉    
              

           
         不折の画室開きに   
     祝宴に湯婆(たんぽ)かかへて参りけり 

      
         不折子の画室成る
     苦辛ここに成功を見る冬の梅 

 
           不折に寄す   
      
     画室成る蕪を贈つて祝ひけり 


子規は不折から絵の具を貰って絵を描いていましたが、不折の生活は逆に子規が心配するほどに貧しかった(「墨汁一滴」)のです。この頃は挿絵画家として生活が安定したのでしょうか。新居につづいて画室を持った不折への子規の親愛の情が俳句からも感じられます。

病牀で絵を描くことを楽しみにした子規は洋画の色彩に強い魅力を感じていました。絵の具を合わせて草花を描き、思うような色を出すための工夫をして、くすんだ赤や黄色身を帯びた赤を出すのを写生の楽しみとしていました。そんな子規は「神様が草花を染める時も矢張こんなに工夫して楽しんで居るのであらうか。」
(「病牀六尺」)という言葉を残しています。


明治33年  春蘭や無名の筆の俗ならず

     
        かいなでに牡丹描くや泥絵の具   

       
             五月十五日
        薔薇を描く花は易く葉は難かりき   

             月兎新婚に
        君がために冬牡丹かく祝哉  

明治34年  写生して病間なり春一日

        朝顔ヤ絵ノ具ニジンデ絵ヲ成サズ

明治35年  南瓜より茄子むつかしき写生哉

     
         芍薬を画く牡丹に似も似ずも

         草花を画く日課や秋に入る

    
         病床の我に露ちる思ひあり 

       
         朝顔や我に写生の心あり

晩年の「朝顔や我に写生の心あり」は絵を真剣に楽しんでいるようであり、人生を振り返った自負のようであり、フランスへ留学した中村不折への友情の確認のようでもあります。明治35年9月のこの地味な句に私はとても心惹かれています。



 
参考図書 『子規との対話』 復本一郎著 邑書林 
       『正岡子規集』 (現代日本文学全集16) 講談社 
       『子規の俳句』 大岡信著 増進会出版社
       『子規山脈』 坪内念典著 NHK放送出版協会

                                             (千惠子)
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# by hakusanfu-ro | 2013-05-10 22:59


正岡子規に学ぶ


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