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閑話・子規と野球

野球殿堂博物館(東京ドーム併設)に入ると、まず目につくのは天井から下がった子規の句の展示です。

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子規は「野球」の「名付け親」とされています。子供のころから野球大好きな私も、俳句を始めるずっと前からそう信じていました。
本名の「升」「のぼる」「のぼーる」から筆名を「野球」としていたとも。
ところが、何年か前に子規がベースボールを「野球」と正式に名付けた訳ではない、というようなことを目にしました。そうかあ、と思いつつ日が流れ、ようやくこの機会に、と調べる気になりました。

野球好きの、かなりマニアックな内容もありますので、野球に興味ない方は覚悟されるか、読み飛ばしますように。なお、野球の歴史などは、
神田順治著「子規とベースボール」1992年ベースボールマガジン社発行
から引用しました。

野球の伝来は、説は色々ありますが、明治6年に開成学校(のちに子規の入学した大学予備門・後の一高)の米人教師がひろめていった、というのが定説のようです。文明開化時代、地方にも米国人教師は居ましたから、野球らしきものはしていたかもしれません。
明治11年には、東京や横浜にはすでに野球倶楽部があり、大学予備門にもチームがあったのです。日本人の文化やスポーツの吸収力の速さにはびっくりします。
ですから、子規は明治17年に大学予備門へ入学したと同時に野球を始めています。明治19年の「一高寄宿新報」には、ピッチャー正岡常規の名が残されていて、かなりの名左腕投手だったようです。また、捕手もつとめました。
捕手は野球チームにとって「かなめ」の選手、捕手が良ければチームが強くなるのは、今のプロ野球でも解ります。ともかく、子規は野球にかなり詳しい名選手だったのです。
明治20年の「筆任勢(ふでまかせ)」には、日本の遊び数々あるものよりも、ベースボールが一番面白い、ということを書き綴っています。
「(ベースボールの試合の)戦争の烈しきことローンテニスの比にあらず(略)・・攻めては戦場を馳せまはり防ぎては弾丸を受けて投げ返しおつかけおどし・・(略)・・敵を脅し不意打ちあるは挟み撃ちし・・」
剣術も柔術もしなかった子規が野球に嵌ったのは、まさに「フィールド上における戦争のかたち」に惹かれたからなのです。言ってみれば、刀を取り上げられた士族にとってバットはそれに代わる「武器」、ボールは弾丸であり。まさにルールのある「戦争ごっこ」だったのです。
さらに続きます
「・・ベースボールほど愉快にて満ちたる戦争はなかるべし」

さて、私は「野球」とか「投手」とか今風に書いていますが、当時はすべて片仮名で「ベースボール」「ピッチャー」と言っていました。
では野球、という文字が初めて出てきたのは・・
明治22年、第一高等中学校(のちに一高)に通学していた子規は本郷の常盤会宿舎(元伊予藩主の作った、今で言えば県人会寮)から通学していました。その寄宿仲間に子規は野球を広めました。
明治23年、「筆任勢」に子規は
「・・雅号をつけることを好みて自ら澤山撰みし中に・・今日余の用ゆる号ハ左の如し」と、二十七の雅号を列挙しています。
「常規凡夫 丈鬼 子規 獺祭魚夫 秋風落日舎主人 ・・(中略) ・・ 野球」
最後に野球、とあるのです。
子規のユニフォーム姿の写真は、明治23年ごろのもの、と言われています。
当時のグローブ・バットと並べ、野球殿堂博物館に陳列されています。

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この写真が明治23年だったとすると、9月には大学へ進学していますからそれまでの一高時代に撮ったと考えられます。大学に入ると学業が大変なため、野球を続けるのは難しかったようですが、前年に喀血した子規には次第に、野球をする体力は失われていったことでしょう。
かといって、子規は野球に興味を失った訳ではなく、明治29年には「松蘿玉液」 (新聞日本掲載)の中で、ベースボールについて詳細かつ綿密な解説をしています。そこでも、子規の文章はすべて「ベースボール」としかありません。子規には、野球という文字が雅号のひとつでしかなかったのです。

初めてベースボールを野球、と訳したのは、一高で子規の三年後輩の「中馬庚(ちゅうま かなえ)」でした。
明治27年に中馬は「野球」という訳語を使っています。
Ball inField = 野球です。野原での球競技、という訳です。
明治28年2月、中馬が「一高野球部史」に、初めて「野球」と書いています。ところが・・子規と中馬は、一高時代に交流はなかったのです。つまり、3年後輩のため、子規と一緒に野球をしたという事実が残っていません。
ことによると、中馬は、子規の雅号「野球」をどこかで見て、それが脳裏に刻まれていたのかもしれません。
また、中馬は明治30年に日本で初めての「野球」という野球解説書を書きました。野球殿堂博物館にその本が陳列されています。内容を読みたいところですが厳重にガラスケースの中。
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しかし、明治時代に、野球という訳語は普及しませんでした。
「松蘿玉液」に書かれた「ベースボール解説」の最後に、子規はこんな断り書きを残しています。
「ベースボールはいまだかつて訳語あらず、今ここに揚げたる訳語はわれの創意に係る・・」と。
すでに後輩の中馬庚が「野球」という訳を使っていたことは、病床の子規には伝わっていませんでした。

ならば、今の「野球」という訳語が普及したのはいつからのこと?
東大野球部監督として名を馳せ、その後も様々に野球界に貢献した「子規とベースボール」の著者・神田順治氏によれば、子規以後、野球用語は訳されたかたちで記事にはなっていました。ことに朝日新聞は「ピッチャー キャッチャー」などというカタカナ表記は一切せずに漢字をつかっていたとのこと。
大正3年に朝日新聞の野球記事を嘱託されていた遠藤なる人物が、野球用語を細かく訳して整理しました。その時に「ベースボール=野球」が公的に使われるようになったようです。しかしそれが一般に普及したのは大正の終わりころではないか、というのです。
子規が名づけ親、と思っていたことを裏切られるような結果になってしまいました。が、ここでがっかりしてはいけません。
前述の「松蘿玉液」を読むと、そのベースボールについての解説の内容は、ルールから楽しみ方まで、実に野球を余すことなく解釈しているのです。フィールド(グラウンド)の図もあり、道具の説明もあります。
9名の選手の邦訳 本基 第一基 第二基 第三基 投者 短遮(ショート)
など、図を見ながら読めば何も知らない人でも解ります。走者打者 など今でも使っている訳もあります。子規は英語には堪能でしたから「ベース」にこだわり、Bace=基礎→基、の訳語になりました。塁、は砦の意味ですが、直訳すれば、基、という方が正しいでしょう。子規は訳するのに「英語の意味」に忠実でした。

子規の「松蘿玉液」の野球も今の野球も、日本で野球は「戦」です。これは、一高野球から始まったもので・・これを書くのは子規と離れるのでやめておきます。野球の基本をここまで情熱を傾けて書いた子規は、まさに「日本野球の先駆者」と言われるにふさわしいものです。

子規と虚子・碧悟桐が松山で最初に出会ったのは、野球が縁でした。(子規と虚子に記載)。
明治22年ごろ、すでに地方都市で中学生に野球を教えたのは、おそらく一高~帝大とすすみ帰郷して教師となった人たちだと思います。後年、中馬庚もまたその一人となりました。そうして、一高から始まった「武士道野球」は普及し、大正4年、全国中等学校野球大会(今の全国高校野球大会)となりました。

私は中学の終わりから高校の途中までを愛媛のお隣、香川県高松市で過ごしました。当時、四国は「野球王国」と言われ、高校野球はことに愛媛県が非常に強かったのです。当時は北四国大会に各県の勝ち残り2校ずつ計4校が出場、それに勝てないと甲子園には行けませんでした。
子規が通い漱石が教師をしていた「松山中学」は、後年「県立松山東高校」となり、甲子園で1回優勝しています。ちなみに、同じ市内の松山商業は昭和・平成と、甲子園で4回も優勝しています。
そうした強い愛媛の学校に負けまい、と切磋琢磨して、四国全体が「野球王国」とまで言われるようになりました。それもまた子規の作り上げた基礎の上にあったのでしょう。
しかし、松山の球場がなぜ「坊ちゃん球場」なのでしょうか。「子規球場」と名付けて欲しかったと思います。
ちなみに、ふるさとには子規の名の球場は残りませんでしたが、上野公園内にある都立の野球場は平成14年、「正岡子規記念球場」と名付けられました。
子規は明治23年に上野公園の広場で野球に試合をしたことがありますし、上野に近い根岸で永眠しましたから、ふさわしい名づけです。球場には前述の句を刻んだ句碑もあるそうです(残念、近くを通りながら、見たことがありません)

夏草やベースボールの人遠し  子規 明治31年

参考 神田順治著「子規とベースボール」1992年ベースボールマガジン社発行
    子規全集十八巻   講談社
    野球殿堂博物館
                                                (くみこ記)
by hakusanfu-ro | 2013-08-04 16:10


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