正岡子規と中村不折

坪内逍遥の「小説神髄」以後、個人の署名のある文章が読者層の心を掴む社会構造が生まれました。
個我意識の覚醒と商業ジャーナリズムの発展により、雑誌、新聞の発行が相次ぎ、「批評」の時代が
到来したのです。
明治22年、新聞「日本」を創刊した陸羯南は、「国民精神の回復発揚」を目的の一つに掲げて、西欧に
範を求めた思潮を克服する一歩を踏み出します。伝統詩の再生に取り組み始めていた正岡子規は叔父
加藤拓川の仲介を得て陸羯南と出会い、新聞社「日本」の社員となりました。
28年に創刊した俳誌「ほとゝぎす」とともに新聞「日本」は子規の文学活動の拠点となって行きます。


       根岸草庵
    紅梅の隣もちけり草の庵    (明治26年)

子規は母と妹を東京に呼び、陸羯南の家の西隣 下谷区上根岸八十八番地 に一家を構え
文学に没頭していきます。

中村不折と出会ったのも新聞社「日本」でした。
挿絵画家を探していた子規は近隣に住む美術教授浅井忠から洋画家中村不折を紹介されました。
子規は「写生」によって俳句短歌の革新を成し遂げますが、そこに中村不折の存在は大きく関わりを持ちました。「写生は画家の語を借りたるなり」(明治32年「叙事文」)と、述べているように、不折の西洋画論からヒントを得て写生(写実)の用語を得ました。


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「頑固なる日本画崇拝者」で

     油絵の彩色多き暑さ哉   (明治26年)

という俳句を作っていた子規は
「不折君に逢ふ毎に其畫談を聴きながら時に辯難攻撃をこころみ其度毎に發明する事少なからず。」と
洋画に開眼しながら

           不折来る
   絵かきには見せじよ庵の作り菊    (明治28年)

         不折新居
   葉鶏頭の苗養ふや絵師が家      (明治31年)

折レ曲り折レマガリタル路地ノ奥ニ折レズトイヘル画師ハ住ミケリ
(中村不折ノ住処ヲ問ヒ来リタル芳雨ヘ。明治32年)

不折との交流を深めていきました。

新聞「日本」連載の「墨汁一滴」には明治27年3月に不折と出会ったこと、不折への信頼、不折からの影響、洋行する不折への気遣いがせつせつと五日間書き継がれました。その中でも次の箇所は

     「始めて君を見し時の事を今より考ふれば殆ど夢の如き感ありて、後來余の意見も趣味も君の
      教示によりて幾多の變遷を來し、~略~」 

     「君の説く所を以て今まで自分の専攻した俳句の上に比較してその一致を見るに及んで~中略~
     美術の大意を教えられし事は余の生涯に幾何の愉快を添へたりしぞ、若し之無くば數年間病壯に
     横たはる身のいかに無聊なりけん。」    

と子規が「写生」の考え方を掴んでいく様子を伝えています。
また子規は自らが作句で「写生」を実感したことを

「~(明治27年)秋の終りから冬の初めにかけて毎日の様に根岸の郊外を散歩した。其時は何時でも一冊の手帳と一本の鉛筆とを携へて、得るに随て俳句を書きつけた。写生の妙味は、此時に始めてわかつたような心持がして、毎日得る所の十句、二十句な獲物は、平凡な句が多いけれども、何となく厭味がなくて垢抜がした様に思ふて自分ながら嬉しかつた。」

と明治35年『獺祭書屋俳句帖抄上巻』序文で述懐しています。

中村不折は 「写生」によって古人の見いだせなかったものを「発見」することにオリジナリテイ―がある(「俳画法」)と考えていたようで、この書物は子規の死後に刊行されましたが、この考えは子規にも影響を与えていたと思われます。
子規は「油画が這入って来て、いよいよ写生が完全に出来るようになった。此写生は無論感情的写生であつて、人がものを見て感ずる度合に従つて画く~(略)」(「写生写実」)と述べました。俳句は「趣向は実景実物を見て考へ起すべし。必ず新しき趣向を得ん。」として、「写生といひ写実といふは、実際有りのままに写すに相違なけれども、固より多少の取捨選択を要す。取捨選択とは面白い処を取りてつまらぬ処を捨つる事~(略)」(明治33年「寒玉集」) と著しています。


 明治32年 子規は次のような俳句を詠んでいます。    

          自ら自らの手を写して
     樽柿を握るところを写生哉  

             
          自ら秋海棠を画いて(三句のうち二句) 
     病床に秋海棠を描きけり   
     紙ににじむ秋海棠の絵の具哉    
              

           
         不折の画室開きに   
     祝宴に湯婆(たんぽ)かかへて参りけり 

      
         不折子の画室成る
     苦辛ここに成功を見る冬の梅 

 
           不折に寄す   
      
     画室成る蕪を贈つて祝ひけり 


子規は不折から絵の具を貰って絵を描いていましたが、不折の生活は逆に子規が心配するほどに貧しかった(「墨汁一滴」)のです。この頃は挿絵画家として生活が安定したのでしょうか。新居につづいて画室を持った不折への子規の親愛の情が俳句からも感じられます。

病牀で絵を描くことを楽しみにした子規は洋画の色彩に強い魅力を感じていました。絵の具を合わせて草花を描き、思うような色を出すための工夫をして、くすんだ赤や黄色身を帯びた赤を出すのを写生の楽しみとしていました。そんな子規は「神様が草花を染める時も矢張こんなに工夫して楽しんで居るのであらうか。」
(「病牀六尺」)という言葉を残しています。


明治33年  春蘭や無名の筆の俗ならず

     
        かいなでに牡丹描くや泥絵の具   

       
             五月十五日
        薔薇を描く花は易く葉は難かりき   

             月兎新婚に
        君がために冬牡丹かく祝哉  

明治34年  写生して病間なり春一日

        朝顔ヤ絵ノ具ニジンデ絵ヲ成サズ

明治35年  南瓜より茄子むつかしき写生哉

     
         芍薬を画く牡丹に似も似ずも

         草花を画く日課や秋に入る

    
         病床の我に露ちる思ひあり 

       
         朝顔や我に写生の心あり

晩年の「朝顔や我に写生の心あり」は絵を真剣に楽しんでいるようであり、人生を振り返った自負のようであり、フランスへ留学した中村不折への友情の確認のようでもあります。明治35年9月のこの地味な句に私はとても心惹かれています。



 
参考図書 『子規との対話』 復本一郎著 邑書林 
       『正岡子規集』 (現代日本文学全集16) 講談社 
       『子規の俳句』 大岡信著 増進会出版社
       『子規山脈』 坪内念典著 NHK放送出版協会

                                             (千惠子)
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by hakusanfu-ro | 2013-05-10 22:59


正岡子規に学ぶ


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